多ジャンルを呼び寄せる不吉なフィルム・ノワール──『アンフォゲタブル』をめぐって

 ジョン・ダール監督の今後の新展開を充分に予感させる新作『アンフォゲタブル』は、フィルム・ノワールの伝統を引き継ぐ、新しいタイプのミステリ映画だ。だが同時に、これは不吉な予感に満ち満ちたフィルム・ノワールだ。起き抜けに呼吸を整えながら今見た悪夢を反芻し続けているような気分にさせられる映画、全編を通じて死臭が芬々と漂っているような映画なのだ。かつて何者かに殺された妻の死因究明に固執する検死官デイヴィッド・クレインが、この映画の主人公である。彼は他の多くのノワール作品の登場人物と同様、過去にとらわれながらも、過去から逃れようとしている男だ。クレインは、妻が殺された時、殺害現場のすぐ近くで泥酔して眠りこけていたため第一容疑者として逮捕され、証拠不充分で無罪となった過去を持つ。街中のドラッグ・ストアで無差別殺人があった夜、彼は現場の床に、妻の殺害現場にあったのと同じ、独特の形に擦られた紙マッチを発見する。この夜から、彼の過去に対する執着は止まるところを知らずに暴走し始める……。
 
 これまでにも数多くの犯罪映画が、人間の記憶を軸に物語を織りなしてきた。『深夜の告白』(ビリー・ワイルダー、44)、『ブロンドの殺人者』(エドワード・ドミトリク、44)、『ローラ殺人事件』(オットー・プレミンジャー、44)、『恐怖のまわり道』(エドガー・G・ウルマー、45)、『過去を逃れて』(ジャック・ターナー、47)、『都会の牙』(ルドルフ・マテ、50)といった「フィルム・ノワール」の傑作群は、そのほとんどが、主要人物が「取り返しのつかない過去」を回想する劇構造を備えている。一人称による回想形式が支配的だったフィルム・ノワールの他に、複数の人物の回想によって物語が語られていく作品も数多く作られてきた。犯罪映画とは呼べないが、『羅生門』(黒澤明、50)は複数の登場人物が過去を回想し、それにつれて一見矛盾し合う記憶同志が整合されていくことで、曖昧な事件の輪郭が明らかになるという体裁を持った作品だった(最近でも、『戦火の勇気』(エドワード・ズウィック、96)がこうしたスタイルを採用している)。『三人の妻への手紙』(49)や『イヴの総て』(50)といったジョゼフ・L・マンキーウィッツの諸作品や、ヴィンセント・ミネリの『悪人と美女』(52)も、ミステリアスな出だしから複数の人物の回想によって謎めいた過去が明らかになってゆく、フラッシュバックを多用した傑作だった。

 『アンフォゲタブル』も、フラッシュバックによる過去想起でミステリアスなドラマが織り成されていく点で、こうした作品群の系譜に連なる映画だと言えるだろう。面白いのは、この作品がフィルム・ノワール・スタイルの回想形式を採用しつつ、その回想形式の内に、主人公が一人で複数の人物の記憶を追想していくという荒唐無稽なアプローチを試みているところだ。つまり先にごく大雑把に見た、従来の映画が採用してきた二つのタイプの回想形式が、『アンフォゲタブル』の中では(強引なまでのやり方で)一つに混合されているのである。クレインは、他人の記憶を自らの中に蘇らせる研究をしている女性脳医学者マーサと出会う。誘発剤と他人の脳髄液を混合して体内に注射すると、脳髄液の持ち主の記憶(それも忘れられないほど強烈な記憶)を見ることができるという彼女の研究は、まだ人間の身体で実験するまでには至っていない。だがクレインは、マーサの研究の成果を自ら試してみることで妻の死因を探ろうと決意する。そして、まるでマッド・サイエンティストさながら、あるいは麻薬中毒患者さながら(他人の記憶を反芻するために腕に注射を打ち続け、身体を弱らせていく彼の姿は、なんと病的に見えることか)、自分を実験台として新薬を試し続けることで、散逸した記憶の迷路の中に迷い込み――マーサが自分の研究の成果をクレインに見せるとき、実験用の鼠に、文字通り迷路をくぐり抜けさせるのは象徴的だ――、事件解決のための出口を探し始めるのである。

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