『バリエラ』をめぐって

●アンジェイ・レシュチツと名無しの青年

 スコリモフスキは、当初本作の主人公二人を演じる俳優として、自身とウッチ映画大学で共に学んだヨアンナ・シチェルビツとを考えていた。しかし、中央映画局はスコリモフスキに主役を演じさせたがらなかった。彼が前二作『身分証明書』『不戦勝』で自ら演じてきたアンジェイ・レシュチツが、ネガティヴな人物であったことがその理由である。主人公を誰か他の者が演じない限り、この映画を監督することはまかりならぬと言われたスコリモフスキは、主演を断念せざるを得なかった。

 そのため本作は、スコリモフスキが自ら主演していない最初の長編映画となった。アンジェイ・レシュチツと同じく、社会に適応することなく猶予の時間を生きる主人公の青年──しかし『バリエラ』におけるレシュチツの代替的青年(彼には名前がない)は大学を中退したばかりとの設定であり、その意味で実は『不戦勝』の物語から時間を少々巻き戻した「やや若返ったレシュチツ」だ──を演じたのは、若手職業俳優ヤン・ノヴィツキである。もっとも、スコリモフスキとノヴィツキという明らかに身体的相違が認められる二人の人物が演じている事実に加え、『バリエラ』の青年とレシュチツとの間には、性質上の著しい相違をも認めることができる。すなわち、前者の自信過剰(うぬぼれ)や傲慢さや明晰ぶりは、レシュチツの自信のなさ(頼りなさ)や内向性と対照をなしているように見えるのである。そのためスコリモフスキ演じるレシュチツを主人公する三本──『身分証明書』『不戦勝』『手を挙げろ』──をレシュチツ三部作として完結しているとみなすか、そこにレシュチツの一変種としての「青年」を主人公とする『バリエラ』を加え、全部で四部作とみなすかは、評者によって意見が割れる。筆者としては、レシュチツ三部作に『バリエラ』を加えることで、緩やかな四部作とみなす立場を採る。レシュチツという架空の人物自体、作品毎に一貫性を欠く履歴と性質を備えている──ということはつまり、アイデンティティを備えていない──からである。

●さまざまな障壁

 原題は『障壁』の意。題名をはじめとして、本作で遠回しに言及される「障壁」とはまず、ヤン・ノヴィツキ演じる主人公の青年が体現するポーランドの戦後第一世代──戦争(故国のための愛国的闘争)体験に基づいてアイデンティティを確立する機会を逸した世代──と、実際に第二次大戦に参戦し「故国のために」闘った世代との間に立ちふさがるそれを指しているだろう。青年にとって、羨望の対象であると共に嫉妬や懐疑の対象でもあるこの先行世代は、彼の父親の世代でもある。主人公が信頼を寄せる唯一の先行世代(戦争体験者)である彼の父親は、愛用のサーベルを息子に贈る。息子は父からもらったサーベルを手にあてもなく街を歩き回るが、彼は見るからにこの大きな剣を持てあましている(もはや不要なものでしかない大時代的な武器を使って何をすればいいのかわからない)様子である。しかし肉親からの贈り物である以上、青年はサーベルを捨てることができない。もっとも、サーベルを使って彼にできるのは、自分を罵倒したりからかったりする先行世代を(ふざけて)威嚇すること、あるいは豚の貯金箱を縦に切ってなかに入った小銭を取り出すことぐらいだ。その様子は、前世代がロマンティックに回顧する英雄的な戦争体験談を自らも引き受けたいと心のどこかで望みつつ逡巡する、あるいは自らの周囲に漂うそうした戦争英雄譚称揚の雰囲気に囚われつつ無意識にそれに反発する「現代青年」の姿を体現しているようだ。

 

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