それだけではなく、この傲岸不遜な主人公の青年は、彼の同世代の若者たち(医学部の元同級生)に対しても「障壁」を築いているように見える。奇妙なゲームに勝利して、豚の貯金箱のなかに収まっている「共同基金」をわがものとした青年は、学生寮の同室内で暮らす同級生三人にあっさり別れを告げて(大学を中退して)街へと一種の“冒険の旅”に出る。
さらに青年は、街なかで出会った同世代の娘との間にも「障壁」が立ちふさがっている事実に直面する。この男女は、お互いを分け隔てているこの異性間の壁を乗り越え、愛を成就させなければならない。

●鍵、サーベル、煙草

 上映時間の半分が過ぎたあたりに登場する、ある象徴的な場面に着目してみよう。ここでは、主人公の青年が肌身離さず持ち歩いている父からの贈り物(サーベル)と、鍵──先行場面で「鍵」は、青年によって「所有物と直接結びつく=所有物の数をそのまま体現する小物」であり、「持つ者」の存在証明なのだと暗に言及されている──が意味深な役割を果たしている。その「先行場面」を、ここでしばし思い出してみることにしよう。レストランの場面で、彼は路面電車の娘に自分の鍵束を見せながら、それぞれの用途を説明していた。「一本目は門、二本目は屋敷、三本目は車庫、四本目は車のドア、五本目はイグニッション」と。娘に「六本目は?」と問われた彼は「忘れた」と答える。

 前述した場面に戻ろう。「持たざる者」たる若き元医学生が、屋敷や車などを所有しているはずはないため、レストランで彼が娘に示した鍵束はあくまで存在しない所有物のメタファーでしかなかったはずである。あるいはレストランの場面、もっと言えば映画『バリエラ』自体が一個のメタファーでしかないのである。であるがゆえに、青年が鍵の一本一本に応じた「モノ」の数々を所有しているかに見える場面が登場するとしても何ら不思議はない。同場面で鍵束を手にした青年はまず鍵のなかの一本を選んで門を開け、次いで別の鍵を使って扉を開ける。続いて彼は車庫にやって来て、別の鍵を使って車のドアを開け、乗り込む。運転席に座った青年は、さらに別の鍵を使ってエンジンをかける。

 このとき、青年の顔の片側は焦げたように黒く汚れている。映画の冒頭、彼が学友の一人から煙草を口にくわえさせられるくだりを思い出してみよう。青年が火を点した途端、煙草は小さな爆発を起こし、彼の顔は右半分が煤けてしまった。学友は煙草をひと箱ぶん青年に贈り、「煙草が爆発したら、自分の卑小さを思い出せ」と言い放つ。その後雪の降り積もった夜の街で、青年は贈られた煙草を一本だけ懐にしまい込むと、残りを焚き火に投じてしまう。この、一本だけ残された煙草がいつ吸われることになるかに注目してみよう。それはまさに、前述した青年が鍵を使って車に乗り込みエンジンをかけた直後のことなのである。しかしこのとき、火を点された煙草はすぐには爆発しない。青年が訝しむような顔つきでしばらく煙草を吸い続けた後、ふとそれをつまんで口元から離したときに、爆発が起こるのだ。その瞬間、彼は「自分の卑小さ」を思い出したであろうか? しかし実を言えば、すでにこの場面において、青年の顔は半分(冒頭とは逆に左側が)黒く煤けている。同場面に先立つくだりで、彼はスーツケースを馬に見立て、サーベルを振りかざしてスキーのジャンプ台から滑降したものの、「馬」を最後まで巧く御することができずに結局ぶざまに斜面を転がり落ちた。青年の顔が汚れているのは、この転落が原因なのである。彼はあのジャンプ台で、第二次大戦時に勇敢に闘った前世代の騎兵をいささか滑稽に模倣したわけであるが、それは故国のために闘うことすらできない自らの世代の卑小さを半ば自嘲気味に確認する行為でもあった。つまり「鍵」を使って次々に自己の「所有物」を確認するふりをしているとき、すでに青年は充分すぎるほどに己の卑小さを自覚しているのである。そうであるがゆえに煙草はすぐには爆発しないのだし、爆発を怖れて(期待して)いた青年は拍子抜けするのだ。

 車から降りた青年は、雪の降り積もる庭に出て、藁束を巻かれた木を抱きかかえるようにしてサーベルを自らの身体(の前に位置している木)に突き刺す。父親からの贈り物であり、克服不可能な過去の歴史の亡霊のメタファーでもあるサーベルを使って疑似的な自死を遂げた彼は、以前車に乗った「持てる者」たるブルジョアの中年男から「覚えておけ、君はいつか死ぬ。だが復活なんかしない」とからかわれたにも関わらず、象徴的な「復活」を遂げる。彼はかつて娘に用途を忘れたと答えた六本目の鍵を使って、庭にある小屋の扉を開ける。温室らしきその内部に収まっているのは、大量の白い花々である。青年は花を一輪むしり取ると花びらを自らの顔に押し当て、次いで転んで地面にうつぶせになる。そのとき彼は、花を口にくわえて何かを考え込むようにうなだれ、額を地面にくっつける。

 この後の展開を確認すれば、復活祭を背景として物語が紡がれる『バリエラ』における青年の「復活劇」──すでに彼は映画の冒頭近くで、キリストの自己犠牲に言及しつつ献血協力を呼びかけていた──が、一定の意味を備えていることがわかるはずである。前述の場面において、彼は自殺する(ふりをする)ことで過去の亡霊=サーベルと決別し(あるいは解放され)、現在を生きることを決意する。それは路面電車の運転士を務めるあの娘に対して抱く、自らの「愛」を確認する行為に等しい。実際青年は以後サーベルも(自分の全財産が入った)スーツケースも携えずに娘の前に姿をあらわすのである。その瞬間、二人の男女は回り道の果てにようやく自分たちの愛が成就することを確信するだろう。青年は「小康状態」のポーランドで、金持ちの女と結婚して安定した暮らしを手にしようと考えていた過去の自分とも「復活劇」を通じて訣別し、最終的には現状追認的な生き方を拒絶しつつ自らの感情に素直に(かつ純真に)従うのである。

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