mozi - archives - 遠山純生-
バランドフ・スタジオ/クラートキー・フィルム・プラハ 訪問


 “ヨーロッパのハリウッド”と呼ばれるチェコ映画界随一の大スタジオ「バランドフ撮影所」と、バランドフに隣接するもう一つの映画スタジオ「クラートキー・フィルム・プラハ」を訪問し、そこで活躍する方々に話をうかがった。


 インタヴュー記事を紹介する前に、まずはバランドフ・スタジオが辿った第二次世界大戦終焉時までの歴史を、簡単に振り返っておこう。

 チェコ映画史と関わりの深いハヴェル家の中でも、今日のバランドフ撮影所の基礎を築いたのは、とりわけミロシュ(1899年~1968年)とヴァーツラフ(1897年~1979年)の兄弟だ。ヴァーツラフは、後のチェコ大統領の(同姓同名の)父親である。アメリカに留学したヴァーツラフは、1930年代はじめにアメリカ的な現代的建築様式の田園都市をプラハ郊外に建設することを計画した。ミロシュはその地にモダンな映画スタジオを作ることを提案、マックス・ウルバンのデザインに基づいて1931年11月からスタジオの建造が始まる。そしてその14ヶ月後、バランドフ製作のチェコ映画第一作『オストロフ通りの殺人』が撮影される。その後スタジオの映画製作本数は急激に増加し、300人の終身雇用者を抱え、年間80本の映画を製作、国外の製作者を魅了するまでになった。

 第二次大戦期のドイツ軍による占領時代には、スタジオの運営は実質的にUFAが担っていた。バランドフをベルリンやミュンヘンの映画撮影所と同じ規模にするため、ナチス・ドイツは相互に連結した三つの大ステージ建造計画を立案。1941年から着工し、最後のステージは1945年初頭にようやく完成した。この三つの巨大ステージは、いまだに世界中の映画の撮影で使用されている。

 戦後(1945年8月)、バランドフとその姉妹スタジオ「ホスチヴァーシュ」は国有化され、1990年代初頭まで国の所有するところとなる。ドイツの所有物になってしまったスタジオを、チェコの手に取り戻すためにおこなわれた国有化であり、ソビエトや社会主義の政策とは関係なかった(チェコが共産党政権下になるのは1948年以後)。この1945年から1948年の間に、実は優れた脚本が多数書かれたのだという。ただしこれらは、1948年のクーデター後は映画化されず、映画にならないまま眠っているものも多い。戦後にバランドフが辿った変遷に関しては、以下に続くイラス氏の談話を参照のこと。

 パヴェル・イラス(Pavel Jiras)氏は、1940年生まれの映画史家。バランドフ・スタジオの刊行物の編集を手がけた後、1984年より同スタジオで本格的にチェコ映画史研究に取り組む。1990年以後、戦前のチェコ映画界で活躍した四人の俳優(Lída Baarová、Oldřich Nový、Adina Mandlová、Vlasta Burian)の研究書を発表。2000年から2003年にかけては、チェコ映画とチェコの有名俳優に捧げた大規模な写真展覧会を三度にわたって企画した。2001年より、バランドフ・スタジオの歴史を研究した大著を刊行。「Barrandov Ⅰ」「Barrandov Ⅱ」が刊行済みで、現在ナチス占領下のバランドフ・スタジオに関する三巻目を執筆中(筆者注:その後、2007年に刊行)。詩集も数冊発表している。

 

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