●シャブロルによる『女鹿』

 シャブロルは、本作品の本質を以下にように端的に言い切っている。「『女鹿』は人間たちの関係を描いた映画です。必然的に、映画は性的関係から始まります」。

 さらにシャブロル自身の口から、今少し詳しく映画について説明してもらおう。
 「『女鹿』に関しては、すっかり満足しています。この映画を観ると、まさに自分が作りたかった映画はこれなんだと思えます。それにたぶん、『女鹿』で初めて私は一切の精神的・物理的拘束なしに映画を撮ることができました。それ以前は製作費が不足していたり、プロデューサーがアイディアに干渉してきたりしたのです。長らく私は、こうした完全な独立を求めていました。『女鹿』はこうしたことすべての成果です。この映画を好む人もいれば、嫌う人もいるでしょう。
 私は混乱した雰囲気も、不適当なシチュエーションも求めてはいませんでした。この映画はとりわけ、完全に自由な思考で作られています。思考の自由を好まない人々は、うんざりさせられるでしょうね。
 “女鹿”とは、フレデリックとホワイのことです。貧しいホワイはフレデリックに気に入られます。フレデリックは金持ちで、一緒に生活しようとサン=トロペへ彼女を連れて行きます。一人の男が平穏な彼女たちの関係をかき乱します。彼は最初ホワイに関心を持ちますが、より華やかなフレデリックは難なく彼の心を自分になびかせます。そうなると、もはやお遊びではありません。本気で恋をしたフレデリックは、それまでとまるっきり違う人生を経験します。捨てられたホワイは、自分が愛し、妬んでいるカップルの影で暮らします。そしてこうした状況が徐々に、ますますひどくなってゆく不均衡へと彼女を導きます。
 一人の男、二人の女、ありふれたシチュエーション。しかし『女鹿』は奇妙な三角関係、正三角形です。私はとりわけエゴイスティックな関係に基づく映画を作ったのです」。

 あるいは、あるインタヴューで、「『女鹿』には少々具合の悪い点が一つあります。ジャン=ルイ・トランティニャンが演じた人物です。この人物は充分に掘り下げられていないのではないでしょうか」との問いに対し、シャブロルは以下のように答えている。
 「全然掘り下げられていませんね。しかしあの人物をごく曖昧なままにしておきたいと望んだのは私です。あれはオブジェ化した人間なのです。『女鹿』の脚本は、ちょうど『いとこ同志』の脚本のように構築されています。まったく同じ場面があります。ステファーヌとトランティニャンが、自分たちを待っていた娘のところに戻って来るところです。これから三人一緒にいられるのだから、ずっと待っていられるはずだと言わんばかりの様子でね。脚本執筆時に、ジェゴフと私はお互いの仕事を分担しました。私はステファーヌの演じる人物に専念し、ジェゴフは若い娘の方に専念したのです。それに、彼はやたらとあの娘を狂人にしたがっていました。こう言ったんです。この娘たちは完全に狂っているんだ、とね。ジェゴフの言う通りでした。彼女たちの頭が完璧におかしいのは確かです」。

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