合言葉としての“今何時?”


 
仙女のおかげで王女様のような姿に変身できた不幸な娘シンデレラは、真夜中になると魔法が解けて元のみすぼらしい姿に戻ってしまう。そこでは12時を打つ時計の音が決定的な運命の分かれ目を告げる。

 シンデレラ物語の設定を援用した映画に、兵卒を主人公にした一群のアメリカ映画がある。そこでは帰営時間を定められた休暇中の兵士が、限られた時間内で束の間の自由を楽しむ。

 イタリア映画でこの種のシンデレラ的設定を用いたのが、『BARに灯ともる頃』(エットレ・スコラ、89)だ。主人公は、港町チヴィタヴェッキアで間もなく兵役を終えようとしている青年ミケーレと、久々に息子とゆっくり話をしようとローマからタクシーを飛ばしてきたミケーレの父。

 再会を果たした親子は、四方山話をしながらあてもなく街をぶらぶらし始める。その後、腹ごしらえをするために入ったトラットリアで、父は息子にある贈り物をする。鉄道員だったミケーレの祖父が愛用していた、古い懐中金時計である。子どもの頃、この懐中時計見たさに何度も祖父に「今何時?」と尋ねていたミケーレは大喜びする。思い出の時計なのだ。

 ミケーレがジーンズのベルト通しに懐中時計の留め金をつけようと立ち上がると、父が「今何時?」と尋ねる。ミケーレはすかさず金時計を見て、「15分」と答える。おどけた父がまた「失礼、何時ですか?」と尋ねる。「時刻ですか? 1532秒です」。調子に乗ったミケーレは、一人芝居を始める。「時間ですか?」「1553秒です」……その後席に就いたミケーレは、左手首に巻きつけていた腕時計を外す。これからは懐中時計を使うのだ、という彼の無言の声明だ。父子は祖父の思い出話に花を咲かせる。

 その後も二人は、映画館、図書館、靴屋、ミケーレの恋人宅、港のバールと、さまざまな場所を訪れる。親子は友人同士のように戯れたかと思うと、今度は父が息子の人間関係や将来を心配し、息子の方は親の一方的な愛情表現に困惑しつつ反発する。いつ、どこの国でも見られそうな風景。この映画の中には、いろいろな形の時間が流れている。父が過ごしてきた年月(ミケーレは父親の手の甲に浮き上がったしみ、額や目元の皺、咳をする口を観察する)、祖父の生きていた時代(懐中時計)、周期的に訪れる時刻(投薬のタイミングを告げる父の日本製タイマー)……そのすべてを包むのは、親と子が互いの絆の在り処を探り合う24時間(ミケーレの休日)だ。

 ところが夜になり、息子が自分の思惑とは別の道を歩もうとしていることを知った父と、いつまでも自分を子ども扱いする父に苛立つ息子は口論を始め、喧嘩別れしてしまう。このとき息子は自分の知らない両親の過去を発見し、父は自分の知らなかったチヴィタヴェッキアでの息子の時間を発見してしまう。そうやって映画は、この世を支配する普遍的な時間などないことを観客にそれとなく知らせる。

 そして翌朝。ローマ行きの列車の個室に座る父のもとを、気まずそうに口実を設けて息子が訪れる。向かいの席に座った息子に、父は帰営ラッパの時刻を尋ね、遅れずに兵舎へ帰るよう促す。ジーンズのポケットから懐中時計を取り出し、時間を確認した息子は、まだ大丈夫だと答える。ぎこちない沈黙。懐中時計を弄ぶ息子に、父がふと尋ねる。「何時だ?」「10310秒」。父は自分の腕時計を確認し、「正確だ」と応える。それをきっかけに、父は何度も時間を尋ね、息子は父の問いに答えることを繰り返す……やがて父が言う。「元気でな」。黙って向かい合ったまま、座った親子をとらえた画面に、映画の原題が重なる。「Che ora è ?(今何時?)」。

 時計の存在が壊れかけていた関係を修復するきっかけとなる、見事な幕切れ。各々個別の時間を生きている人間が、実は同じ時間を生きていることをも教えてくれるのが、時計の存在だ。その事実を確かめるための言葉が「今何時?」なのだろう。



初出:『CHRONOS FEMME
 クロノス ファム』2号 2012年5月
 

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