さかさまにされた時間


 
題名には『砂時計』とあるけれども、別に砂時計が主題となった映画ではないし、砂時計そのものも画面上に一度も姿をあらわさない。ここでの「砂時計」は、あくまでもひとつの比喩でしかないのだ。懐中時計や掛時計は劇中随所に出てくるのだが、これらが用をなさないものであることは映画を観ていけばわかる。


 物語の大枠は、ユダヤ系ポーランド人作家ブルーノ・シュルツの小説集『砂時計サナトリウム』(1937年)に収録された同名短編小説に基づいている。もっとも題名が同じだからと言って、映画『砂時計』(ヴォイチェフ・イエジー・ハス、73)がこの短編小説の「映画化」だと思ったら大間違いだ。この映画は短編小説『砂時計サナトリウム』だけでなく、シュルツのほかの中短編小説も混ぜこぜにした、いわば「シュルツ小説のハイブリッド化」とでも呼ぶべき奇妙な物語を語り始めるからである。

 では、シュルツ作品が映画『砂時計』に変換されることで、いったいどこが変わったのか? それはずばり、「時間」の扱いなのだ。

 小説『砂時計サナトリウム』は、古びたローカル線に乗って旅する「私」(作者シュルツの分身と言える男ユゼフ)に、盲目の車掌が目的地への到着を告げることで始まる。列車を降りたユゼフが父のいる療養所(サナトリウム)を訪れると、医師が彼を出迎える。父親は、この療養所ではかろうじて生きているが、俗世ではすでに死んだ存在らしい。医師はそのからくりを、自ら発明した(と思われる)器械を指し示しながら、主人公に説明する。「時間を後退させたわけです。一定期間だけ時間を後らせる、(……)つまり、お父上の死にしても、ここではまだ結果に行き着いていないのです、あなたのお国では、すでに行き着いたことですけれども」と。主人公がこの言葉を、父が瀕死の状態にあることの言い換えと受け取ると、医師はその誤解を「過去の時間をそのあらゆる可能性ごと生き返らせ」るのだと訂正する。どうやらこの病院では、時間を強引に逆戻りさせることで空間をもその道連れにし、「時空」そのものを可逆化することに成功したようなのだ。

 ここまでは小説『砂時計サナトリウム』と映画『砂時計』は同じ話を語っている。ところが療養所の場面以降、映画は小説からずれ始める。つまり映画版では、徐々に時間の流れが歪んだようになってさまざまな過去が蘇り始め、それに伴い主人公は相異なる複数の時空を絶えず行き来することになるのだ。ユゼフは以後、すでに亡くなった母、幼い頃の友人ルドルフ、自身のルーツであるユダヤ人共同体に次々と遭遇する。しかし奇妙なことに、こうした過去の形象化群と交流している間も、彼の肉体は成人のままなのだ。さらにユゼフは、母親に子ども扱いされると「もう子どもじゃない」と反論するくせに、旧友に接するときには子どもとして振る舞う。彼の心は大人と子どもの間を行き来し、その意識のなかでは過去と現在が溶け合っていることが示唆されるのである。つまり療養所の場面以降、この映画では二つの時間(現在と過去)が並行的に描かれる一方、「時間」と「空間」はずっとずれ続けるのだ。こうした状態を象徴するのが、劇中に登場する歴史的人物を模った蝋人形の数々。蝋人形にあっては、過去の似姿が「今・ここ」にあることで、時空のずれが顕在化する。

 映画は最後に、再度小説『砂時計サナトリウム』に立ち戻ってユゼフにこう言わせる。「たくさんだ、時間から手を引け、時間とは触れてはならぬもの、挑発してはならぬものなのだ! 空間だけで不足なのか。空間は人間のためにある、空間のなかでは、人間は心ゆくままに飛び回ることができる(……)だから、神かけて、時間に手出しするのはやめてくれ!」と。

 本作の題名に「砂時計」が用いられた意味がこのあたりで明らかになってくる。ここで描かれるのは時計の針の回転に象徴される時間の不可逆的進行ではなく、瓢箪型のガラス細工の内部を少しずつ砂が零れ落ち、落ち切った後「瓢箪」を逆さにすればもう一度“同じ分量の時間”がよみがえる、砂時計の可逆的時間なのだ。


※文中の引用箇所は、すべて『シュルツ全小説』(工藤幸雄訳、平凡社)収録『砂時計サナトリウム』からのもの。



初出:『CHRONOS FEMME
 クロノス ファム』12号 2013年12月
 

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