だが、『ねじの回転』を映画にするにあたって、最大の難関だったのはその語りのスタイルを如何にして視聴覚メディアに置き換えるかという点だっただろう。小説における主人公ギデンスの独白は、あくまで彼女の主観として語られているがゆえに、知覚が元来内包する虚偽性、感情的偏向によってものごとの捉え方に生じる歪みを常に意識させる。それに対し、映画にとって徹底的に主観描写を推し進めることは最大の難問である。つまり、ジェイムズが巧妙に仕掛けた主人公の妄想とも取れる一人語り(統合失調症患者よろしく自分の見聞した細部をつなぎ合わせて体系化しているようにも見える)に託された微妙な均衡は、それ自体視聴覚化することが極めて困難なのである。大抵の映画ではそこをごまかして過剰な説明的台詞と視覚化によって難を逃れようとする──そして失敗する──のだが、『回転』はこの難問に上手く答えている。

 どのような点でか、と言えば次の四つに集約されるだろう。
 ①演技と演出
 ②音響処理
 ③装置と小道具
 ④撮影
 映画製作においては欠かすことのできない、当たり前の要素ばかりであるが、これら四要素が『回転』でどのように実現され組み合わされているかを、簡単ながら以下順を追って見ていくことにしたい。

 ①に関しては、主人公を演じたデボラ・カーと、二人の子供を演じたマーティン・スティーヴンスとパメラ・フラン
クリンの精妙な演技、それを達成させたクレイトンの演出に尽きる。カーの冷静を保っているようで、徐々に常軌を逸
していくようにも見える表情の作り方(後半になるに従って時々目を大きく見開き、子供たちに詰め寄るときの薄気味悪
さ)、二人の子役の──タイトル通り──無邪気なようで邪な心を秘めているようにも見える態度。俳優たちは終始、正
気と狂気、無垢と邪悪のどちらとも取れる外観を保っている。特に子供の残酷さと性的欲望の発現は映画版の方で前面
に押し出されている。フローラは蝶が蜘蛛に食われているのを見て喜ぷし、特にマイルスを演じるスティーヴンスは、
ギデンスに性的魅カを感じているような素振りを見せる(ギデンスの美しさを何度も誉めて戸惑わせたり、おやすみのキ
スを必要以上に長くしたりする)のだが、そうした態度も実にぎりぎりのタイミングで止むことで、どうとでも取れるよ
うに演出上の計算がなされていることがわかる。原作では、マイルスはギデンスに対して性的な興味を覚えているよう
な素振りは見せない。

 さらに、幽霊めいた男女の姿の登場のさせ方。無言のまま遠くの方で(顔がよく見えないまま)立っている人影の不気味さや、主人公の目前を一瞬通り過ぎるだけ、窓の向こうからじっと見ているだけといった見せ方の巧さだ。言わずもがなではあるけれども、映画においては幽霊(的なるもの)もまた演出されなければならない。また、映画の中で都合八回登場する人影は、すべてギデンスの主観画面として(正確に言えば最後の一瞬だけは幽霊側からの視点だが)処理されている。つまり、「幽霊」はギデンスのいる場面にしか現れない上、最後の最後までギデンス以外の人間は「幽霊」を目にしたと言わないし、目にしたようにも見えない。

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