のど自慢』をめぐって


 井筒和幸監督の新作『のど自慢』は、弱小芸能プロの社長兼マネージャー(尾藤イサオ)とドサ周りを続ける中年にさしかかった演歌歌手・鈴子(室井滋)、開店したばかりのラーメン屋が火事で焼け、ヤキトリ販売修行で再起をはかる家族持ちの中年男・圭介(大友康平)、不倫中の姉とスナック経営者の母との不和に頭を悩ませる勝気な女子高生・里香(伊藤歩)、ほかにも自閉症気味らしき孫と暮らす老人、二人組の土木作業員、タクシー運転手、銀行員など、毎週日曜日のお昼にNHKで放送されている番組《のど自慢》への出場をもくろむ人々とその家族や恋人などが織りなす群像ドラマだ。

 何といっても観ていて、そして聴いていて楽しい。その楽しさには、そこで描かれる人々の生活、それぞれなんの接点もないけれども同じ地域で生きている人々の生活や感情が《のど自慢》(およびそこでうたわれる歌)という媒介を通して浮かび上がってくる構成の妙が大きく関係していると思う。つまり『のど自慢』は、ある程度脚本が綿密に書かれていないと成立しない映画、ということになるだろうか(脚本は安倍照男と井筒の共同)。とはいえ、確かに一方には群像劇特有の人間同士のぶつかり合いの面白さがあるのだが、他方で今一つ別のぶつかり合いがあり、その面白さも作品に大きく貢献しているように思える。すなわち、映画の舞台に選ばれた群馬県桐生市という場を描く力と、場を背景として個性派俳優が披露する歌およびアクション。この異質な二要素のぶつかり合いである。

 『ガキ帝国』以来、井筒は“ローカルな”場と意表を突いたキャスティングの不均衡な取り合わせを好んでいたように思う。たとえば井筒の90年作品『宇宙の法則』を思い出してみると、そこで描かれた些か歪なホームドラマは愛知県一宮市という地方、そしてその地域特有の異貌──たとえば、青稲が風になびく広大な田圃のなかにそびえる巨大なパチンコ店──をのなかに置かれることによってこそ、いわく言い難い力を得ていたのではなかったか。『宇宙の法則』に見られたように、そして後の『岸和田少年愚連隊』(96)にも見られたように、ほかの日本映画があまり目を向けないような地域を選びながら、そうした場に俳優を置くだけでは満足せず、わざわざお笑い芸人を始めとする個性的な“役者”を主要人物から脇までそろえてきわどい(吉本的な?)ギャグすれすれの珍妙な仕種や台詞回しをフィルムに定着して、過剰に画面を波立たせずにはいられない井筒の、観る者に違和感を抱かせずにはいない嗜好。東京を舞台にした『罪と罰 ドタマかちわったろかの巻』(93)や『さすらいのトラブルバスター』(96)であっても、既知の場所を間寛平や木下ほうかや山城新伍や久本雅美が右往左往するだけで得体の知れないちぐはぐな違和感が漂う。同様の感触は、初期の怪作『金魂巻』(85)が最も色濃く身に纏っているかもしれない。

 『のど自慢』ではそうした井筒作品特有のちぐはぐさが保持されながら、アンバランスな面白さよりはひとつの統合へ向けて力が集中された勢いを旧来の作品以上に感じさせる。クライマックスへと至るまでに描かれた俳優の個性を含む人間模様の諸々の力が“ローカルな”場──《のど自慢》が開催される桐生市のシルクホール──へとひとまず集約されるからだ。

 母親との口論の末家を飛び出し、不倫相手のもとへと去って行った姉に向けて里香のうたう歌が「花」であったり、のど自慢で鐘一つしか鳴らなかったら歌手活動を止めようと悲壮な決意をした鈴子のうたう歌が「TOMORROW」であったり、ましてや最後に流れるのが「上を向いて歩こう」であったりすると、活字で書いているだけだと(そのうえ歌詞など知っていたらなおのこと)物語の流れにぴったりと寄り添うばかりか不必要なまでに説明的とも見えるその選曲ぶりに気恥ずかしささえ覚える向きもあるかもしれない。ところが、これを俳優たちが実際に舞台でうたってみせる場面を見せられ、聴かされるとそうした懸念は吹き飛ばされてしまう。しかも里香、鈴子ときて圭介が最後に「また逢う日まで」をうたう、その順番と盛り上げ方も堂に入ったものだ。俳優たちがうたい始めるとカメラも大きく動き出し、画面がダイナミックに躍動し始めるだろう。そして、会場にいる人々やテレビ局のスタッフらの反応のみならず、テレビで生放送を観ながら勝手なことを言ったり涙を流したりする出場者たちの親族の反応をカットバックすることで、感傷に溺れることを抑制しつつ緩急のリズムをつけるのである。否、抑制とか緩急といった表現は妥当ではないかもしれない。これはどっと泣いた後にどっと笑う急転直下のリズムづけ、いやリズムなどという言葉も適切さを欠くだろう、いわば一見180度異なる力がぶつかり合った画面の組み合わせだと言った方が良いかもしれない。ここから生み出されるのは、当然泣き笑いに歪んだアンバランスな顔であるはずだ。つまり、煎じ詰めると本作のクライマックスですら、井筒映画的な不均衡な力の配分へと行き着いてしまうのである。さらに言えば、『のど自慢』の不均衡な魅力には、歌というものの持つ潜在的な力の顕現が大きく作用しているだろう。


初出:『シナリオ』1998年10月号

 

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