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mozi - rare films- 遠山純生-
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 物語の水準で見れば、映画は原作を巧みに圧縮して約90分の上映時間に収めている。つまり、長い原作にある展開上の大事な要素は、この決して長いとはいえない上映時間の中に、ほぼ詰め込まれている。だから原作を読んでいても、「あれが足りない、これが足りない」という思いにとらわれることはないし、むしろよくここまでうまく切り縮めたものだとさえ思わされる。

 映画の冒頭には、原作にはない場面がひとつ付け加えられている。こんな場面だ。アルデンゴ家の一室でマリアグラーツィアとリーザが両目に湿布を当てながら、(説明されないが、おそらく)仮装パーティに出席する際の衣装をどうするか話し合っている。そこへ予告なしに二人の司法職員が、抵当に入れられた邸の調度品を没収し競売にかけるための検分に来て、驚いたマリアグラーツィアが職員たちに食ってかかり、彼らを邸内に招じ入れたカルラにミケーレはどこかと尋ね(カルラは弟が抵当権課に状況を確かめに行った、と答える)、慌ててレーオに電話で助けを求めるのだ。映画が原作とほぼ同じ物語をなぞるのは、この冒頭場面が描かれた後のことなのだが、ここで登場人物同士の関係とアルデンゴ家の経済状態が一挙に開示され、同時に(ほぼ原作通りに)マリアグラーツィアとカルラの母娘が仮装パーティ出席の準備をする最後の場面──この最後の場面で、カルラは自分がレーオの愛人となったことを母に打ち明けようとしている──が遥かに予告されていることになる。

 原作で、題名にもある「無関心な人々」を端的に体現するのは、青年ミケーレ(演じているのは、1950年代末期からイタリア映画に出演し始め、この後主にイタリア製西部劇や犯罪映画に数多く出演することになる、キューバ生まれの俳優トーマス・ミリアン)だ。レーオを嫌悪し軽蔑する彼は、この偽善者に対して憎悪の念をぶちまけようとするのだが、自分の内奥に棲みついているよそよそしくものごとを対象化してしまう視線のおかげで、感情の赴くままに振る舞うことがどうしてもできない。この青年にとっては、「身ぶりも、言葉も、感情も、すべてが空しい戯れに過ぎないのだ」(原作より)。こんな風に、重大かつ逼迫した局面で白々とした思いにとらわれ、すべてが安っぽく演じられた作りごとに思えてくる経験は、誰しも身に覚えがあるのではないだろうか。原作のミケーレは終始、そのような思いにとらわれ続け、地に足がつかないまま浮遊したような虚しさを抱えている。


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