mozi - rare films- 遠山純生-
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 映画の方は、原作の肝と呼んでいいミケーレの心理状態を充分に視聴覚化しえているとは言い難い。たとえばミケーレがレーオに挑戦的な言辞を弄する場面で、前者の心理的葛藤を説明してくれる言葉は(小説と違って)映画にはない。それを表現するのは、トーマス・ミリアンの冷静とも無気力と無関心とも見える表情と口調のみだ。もちろんこれは、原作と映画とを比較しての話であって、本来映画が原作の主題を視聴覚化する必要などないし、ましてや原作に忠実である必要など毛頭ないことは、言うまでもない。では、映画『無関心な人々』の力点はどこにあるのか。それは、原作で描写される、アルデンゴ邸内をはじめとする部屋部屋や、室内をゴテゴテと飾る調度品が醸し出す倦怠に包まれた雰囲気、暗い部屋に灯された多様な照明器具の光源、その乏しい光に照らし出される人物の姿形を視覚化することであり、そこで国際的な俳優陣が血肉化する複雑な──だがもちろん、言葉による描写とは別種の──心理劇を画面に定着することであっただろう。

 出演者は、多彩を極めている。イタリア人はカルラ役を演じたクラウディア・カルディナーレだけで、残りの人々は前述したミリアンのほか、レーオ役のロッド・スタイガー(1960年代以後、数多くのイタリア映画に出演した)、この映画が遺作となったマリアグラーツィア役のポーレット・ゴダード(チャールズ・チャップリンとの公私にわたるパートナーシップで有名)、リーザ役のシェリー・ウィンターズ(若き日にイタリア人俳優ヴィットリオ・ガスマンやイタリア系アメリカ人俳優アンソニー・フランシオサと短い結婚生活を送っており、イタリア映画への出演も少なくない)と、アメリカ人ばかりで占められている。ちなみに、カルディナーレとミリアンはすでにマゼッリの前作『王位継承者たち』にも出演していた。さらには、偶然なのだが、スタイガーは、翌年の大作『ドクトル・ジバゴ』(デイヴィッド・リーン、65)で、レーオ役と良く似た役柄(ヴィクトル・コマロフスキー役)を演じている。

 劇中のほぼ三分の二を占める室内場面では、撮影監督ジャンニ・ディ・ヴェナンツォによる露光不足気味の画面設計が嫌でも目につく。劇中、カルラはレーオに「この家の中は息が詰まるわ」と言うのだが、視界の大半が闇に沈んだ画面は邸や家族関係が醸すうっとおしい閉所的感覚を視覚化しているように見えるのである。照度を落とした現場の暗さをうかがわせるこんなエピソードもある。撮影中、ポーレット・ゴダードが思わず「明かりを点けて。何も見えやしない!」と叫んだほどだったというのだ。実際この映画には、真っ暗なあまり人物の輪郭しか見えなくなる瞬間が随所にある。もっとも、小説版でも頻繁に室内の暗さが強調されているため、原作がこうした「暗い」画を監督に求めたのだとも考えられる。けれどもマゼッリとディ・ヴェナンツォのコンビはすでに第二次大戦時の悲劇を描いた『見捨てられた者たち』(55、未)で闇に包まれた印象的な室内場面をいくつも作り上げていたから、この暗さは二人の嗜好でもあったのかと思う。闇に覆われた空間で、ランプやスタンドの小さな灯り(それぞれ微妙に光線の加減が違う)が俳優たちの顔をさまざまな形で浮かび上がらせる、その豊かな陰影の変化を見ていると、映画の持つ視覚的可能性がまだ開拓し尽くされてはいないことを思い知らされる。ディ・ヴェナンツォは『無関心な人々』の後、さらに過激に光と闇の配合を探求するのだが、この話題は別の機会のために取っておこう。


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