『火花する恋』公開の翌年(1924年)に、アルバトロスはヴォルコフ監督、モジューヒン主演の映画『キイン』を製作する(この作品も翌1925年に日本公開)。こちらは全体的にもっと慣習的なドラマに近い作風(ただし印象主義映画特有の、素早いカッティングがおこなわれる場面もある)で、どちらかというとモジューヒンの熱演をじっくり見せることに眼目が置かれているようだ。アルバトロスは小さな会社だったが製作した『キイン』は興行的に成功し(『火花する恋』は失敗し、そのおかげでモジューヒンが演出を手がけた唯一の映画となった)、やがてジャン・エプスタンやマルセル・レルビエやジャック・フェデーといったフランス人の印象主義監督の映画も製作するようになる。

 アルバトロス社が、ゴーモンとの決裂後にマルセル・レルビエが新たに設立した映画製作会社「シネグラフィック」と組んで製作したのが、『生けるパスカル』だ。監督はレルビエ自身。原作はもちろん、ルイージ・ピランデッロが1904年に発表した小説『故マッティーア・パスカル』[ 邦訳は『生きていたパスカル』(米川良夫訳、福武文庫)]で、脚本もレルビエ自身が単独で手がけている。ピランデッロが存命中に製作・公開された作であるが、原作者はもともと自作が映画に翻案されることを拒んでいた。映画化に際して必ず要請される妥協案に譲歩したくなかったからだ。そんな彼が多少自作の映画化に対して寛容になったのは、レルビエ監督作『人でなしの女』(23)を観て感銘を受けたことがきっかけである。レルビエの方も、パリで上演されたピランデッロの『作者を探す六人の登場人物』を観て、この作家の作品を映画化したいと熱望していた。モジューヒンを主演に据えることも、レルビエの希望だったとのこと。そしてピランデッロは、完成した『生けるパスカル』を、高く評価したといわれる。

 お話はほぼ原作通りだ。ミラーニョ(現:リグーリア州インペリア県)に住む青年マッティーア・パスカルは、善良な母と二人暮らしの身である。パスカル家は差配人マラーニャの奸計により一家の土地を取り上げられ、図書館司書の職に就いたマッティーアのわずかな収入でやりくりする貧窮生活を余儀なくされている。ある日、彼は内気な友人ポミーノ(デビュー間もないミシェル・シモン)に頼まれ、祭りの夜にポミーノが密かに恋するロミルデという娘に近づく。しかし話すうち、ロミルデが恋する相手がほかならぬ自分であることを知ったマッティーアは、ポミーノを差し置いて彼女に夢中になってしまい、やがて二人は結婚する。二人の結婚生活は、邪悪と言えるほどに陰険な姑ペスカトーレ未亡人の同居が原因となって、幸福な気分も挫かれがちである。その後、生まれたばかりの娘と自らの母が同日に死んでしまい、悲しみと絶望で茫然としたマッティーアは列車に乗ってモンテカルロへたどり着く。同地のカジノで、賭博の素人であるはずの彼は大勝してしまい、こしらえた大金を携えてミラーニョの自宅へ戻るべく再び列車に乗り込む。ところが道中、マッティーアは「マッティーア・パスカルの水死体が発見された」と書かれた新聞記事を目にする。死人になりすまして嫁姑との陰鬱な生活から「自由」になることを思いついた彼は、帰郷を取りやめてローマへ向かう。しかしその後、アドリアーノと名乗り始めたマッティーアは、ローマの下宿先であるパレアーリ家の娘アドリアーナと恋に落ちてしまうのだった……。

>> 次ページへ

mozi - rare films- 遠山純生-
Top Page
column
studies
rare films
archives
profile
about this site

Copyright(C)2011 mozi by Sumio Toyama All Rights Reserved.


前ページへ <<