映画の方は、原作の人間関係をやや簡略化している(文芸ものが大体そうするように)。しかし前述したように、話の流れとしては「だいたい」同じだ。決定的に違う点もいくつかあるが。まず主人公の片目がひどい斜視であるとの原作の描写は、一切無視されている。この(マッティーアとしての自己同一性を明かす)目立った特徴を隠すべく、彼が黒眼鏡をかけたり、果ては手術を受けたりする苦労話も当然ばっさり刈り取られているのだ。それにもちろん、くどくどしく自己の来歴や身辺の状況を説明し、周囲を皮肉交じりの視線で観察しさまざまな観念を弄ぶマッティーアによる一人称の記述(時としてかなりの笑いを誘う)も、映画では再現し得ない。言葉を直接駆使できない無声映画においては、その代わりにモジューヒンの、例の相手を射抜くような鋭い眼差しが劇中至るところで強調される。眼球は隠されるどころか、始終むき出しにされるのだ。マッティーアの喜怒哀楽を雄弁に物語り、彼を取り巻く状況をその表情に反映させ続けるためにである。

 印象主義映画の特徴であるロケーション撮影(本作はローマやトスカーナ州シエナやモンテカルロで撮影された)は、『生けるパスカル』にもふんだんに採り入れられているけれども、それと同じぐらいの割合でセット撮影にも比重が割かれている。約2時間50分ある上映時間のうち、屋外と屋内の撮影比率は半々程度だろう。屋内セットの奇抜なデザインは、建築家ロベール・マレ=ステヴァンやアーティストのフェルナン・レジェを招いて当時流行していた「アール・デコ」調のセットデザインを導入したレルビエの前作『人でなしの女』にも通じる特徴だ。『生けるパスカル』(美術担当はアルベルト・カヴァルカンティとラザール・メールソンだ)では、マッティーアの実家と彼がローマで下宿するパレアーリ家の内部が、アーチ型にくり抜かれた壁で細かに分割される奥行きのある空間として造型されており、その相似形が主人公の囚われている状況の変化のなさ(アイデンティティを捨てようが彼の境遇が改善するわけではないこと)を皮肉に告げているようでもある。こうした独特のセットデザインが、人脈的には後のいわゆる詩的レアリスム映画に、造型的には(表現主義映画の系譜においてのみ語られがちな)『市民ケーン』(41)に連なる面を備えていることも、指摘できないだろうか。

 加えて、メリーゴーラウンド上からの回転する主観映像、長時間にわたるオーヴァーラップ、歪曲像、スローモーシ
ョンなど印象主義映画ならでは特徴的な画面も頻出する。髪型を変えアドリアーノと偽名を名乗るマッティーアが、ロ
ーマの下宿で自らの分身(つまりマッティーア・パスカル)と対峙する幻想場面は、自己同一性や存在証明の不確かさ
を嗤う原作に、遠回しに応えた視覚表現のように見えなくもない。もっとも、原作が下す教訓(?)めいたとりあえず
の結論とはかけ離れた結末を映画は迎えるのだが。

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