──苦悩する現代を反映し分析するべく、いくつかのきわめて重要な人間的主題を提示なさろうと努めていらっしゃることで、あなたはアメリカ映画の“新たな流派”の一員とみなされています。こうした立場から、あなたは今日における映画監督の創造的責任を──芸術的、社会的、道徳的に──どのように定義なさいますか?
RA 創造的責任は個人的なスタイルで表現されなくてはならないし、高い道徳基準と人類の進歩に対する誠実で建設的な関心に基づいたものでなくてはならない。そのような責任を維持し続けるのは、とても難しい。合衆国やヨーロッパでは、人々は映画監督が抱える困難を充分に認識していないことがしばしばだ。いつも良質な映画を作ることができるわけではない。経済的な事情で、商業映画を作ることを余儀なくされることもある。商業映画によって得た収入で、何ら妥協しないで自分自身の“良質な”映画を作ることができるかもしれない。私もこうした通例からは逃れられない。けれども何ら嘘偽りなく自作を高水準に維持し続けようと努めているし、自作の中で自分自身を表現しようと努力している。これは私なりのルールだけれど、他の人々はこうしたルールをまるで守っていない。たとえばアルフレッド・ヒッチコックだ。ヒッチコックがフランスのある界隈であれほどもてはやされているのには、驚かされる。私にとって『裏窓』(54)と『泥棒成金』(55)の監督──彼の近作二本のみに言及させてもらえば──は、さまざまなトリックを操る腕利きの名匠だ。けれどもヒッチコックは、自作を通じて人間的温もりを伝えることが決してない。ヒッチコックには職人芸しか見いだせない。創造がないんだ。

──先ほど個人的スタイルに言及されていましたね……。
RA そう。私の映画には、ひとつのスタイルが備わっていると思う。私自身の個性や行動パターンを表現するスタイルが。こうしたスタイルは撮影中に姿をあらわすことはないかもしれないけれども、撮影後の最終編集の段階で明らかになる。その瞬間、つまり自作がついに明確なかたちと調和を帯びたとき、映画に個人的スタイルを見いだせるのに喜びを覚えるし、自分が創造的衝動やその発展とあらわれのパターンに忠実であったことがわかって嬉しいんだ。

──では芸術的には、あなたは表現上の完全な自由を手にしていらっしゃいますか? もしくはかつて私にお話しくださったように、監督として“干される”ことを避けるために、たとえ気に入らない脚本でも受け入れることを強いられているのですか?
RA 脚本は選ぼうとしている。けれどもまあ、ざっくばらんに言わせてもらおう。自分の映画を作るときには、全面的に自由にやっているしそのことに責任を負う。そうでない場合には、断じて自由でもなければ責任も負わない。

──最近バッド・シュールバーグが、ハリウッドにおける脚本家の知的境遇は、南北戦争以前の南部における黒人たちのそれよりもひどいと言明していました。現在脚本家は何ら表現上の自由を与えられておらず、商業主義やブラックリストの慣行に威圧されているというのは本当なのでしょうか?
RA シュールバーグの意見には、完全には同意しかねる。けれども彼が自分の [ つまり、自作脚本を使った ] 映画を、ハリウッドでよりも東部で製作するのを好んでいるに違いないことは承知している。私見では、西海岸で脚本執筆の人材が欠如しているのは、優秀な書き手があまりにも少ないという単純な事実に由来しているね。著名な脚本家は、新進脚本家や無名の脚本家よりも、製作者たちに対してはるかに独立を保っていられる。ブラックリストに関しては、ハリウッドの状況が恐ろしくて不快なものであることは確かだ。数多くの主題がいまだにタブーのままだし、創造的な知性もひとたび一部の集団の不興を買うと苦労することになる。
 

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