【合衆国映画の復興期】
はじめに

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第二回 

第三回 

第四回 

第五回 

第六回 

第七回 

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mozi - 合衆国映画の復興期- 遠山純生-


 
しかし『勝手にしやがれ』のショット持続時間の長さを改めて確認すると、この映画を見知っている者には一瞬奇異に感じられるのではないだろうか。なぜなら『勝手にしやがれ』を体験した者は、十中八九映画自体が終始唐突に切断され続けているような感覚を抱くであろうからだ。それはおそらく、ハリウッド映画における画面の連続性(コンティニュイティ)の錯覚がまずあり、その錯覚を一つの規範とした場合に『勝手にしやがれ』の映画体験は規範を外れたものだからである。つまり『勝手にしやがれ』のいくつかの場面においては、カットとカットが円滑につながれず、ぶつ切りにされているために、画面の連続性が編集によって保たれるのではなく阻害されている。連続性を重視したモンタージュ(マッチ・カット)に対して、ある場面の中で時間的、場合によっては空間的にかけ離れた二つのショットを併置することで、不連続性をあえて導入したモンタージュ(ジャンプ・カット)は、観客にカットとカットの間の空隙、つまり映画が人為の所産であることを意識させるのである。カットの切断が観客の意識に上るがゆえに、ショット持続時間が意識の中で短縮される(あるいは切断面ばかりが記憶に残る)のではないだろうか。1950年代後半から1960年代前半に製作されたヨーロッパのアート映画で目立つようになったとされるこの技法にも、アクションの連続性が保たれつつ時間的には非連続である「緩い」ものから、アクションも時間もその連続性を剥ぎ取られた「強い」ものまであり、その「ジャンプ」の度合いは様々だ。しかしそこでは、緩かろうか強かろうが「編集」という映画製作の作業行程が意識化される。ジャンプ・カットに限らず、こうした「自意識的な」編集は1960年代後期のハリウッド映画でも顕著になっている。そしてその「自意識」ぶりは、ショット持続時間の(事実上の)短縮化によって二重に強化されているのである。



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