【合衆国映画の復興期】
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mozi - 合衆国映画の復興期- 遠山純生-

第十一回

マイケル・ローマーとロバート・M・ヤング──二人のユダヤ系アメリカ人@


 
マイケル・ローマーとロバート・Mヤングは共にアメリカ合衆国の独立系映画作家であるが、この二人は1960年代には協働して映画作りをおこなっていた。その作品──二本の長編劇映画と、一本のテレビ放映用記録映画──は、いくつかの点で従来のアメリカ映画の枠を超え出た特異な性質を備えたものであった。以下、ローマーとヤングのユダヤ系人としての一風変わった経歴と、彼らの共同作業、『ただの人間』をはじめとする二人の協働作品を中心に論じ、彼らが合衆国の映画にもたらした──そして半ば無視された──異例の姿勢が如何なるものであったか、確認してみたい。

●マイケル・ローマーの幼少期

 マイケル・ローマーは1928年1月1日、ドイツのベルリンにある富裕なユダヤ人一家に生まれた。1933年にナチスが政権を掌握しユダヤ人の就業権を制限し始めると、ローマーの祖父と父は失業して家族を養えなくなったうえ、最終的には財産をすべて失うことになる。ローマー自身が映画を観始めたのは、一家が苦難に見舞われつつあったこの幼少期のことだ。このとき、すでにユダヤ人の劇場への入場は禁止されていた。にも関わらず、映画狂の乳母に連れられて(時には一日に何度も)映画館に忍び込んだと彼は回想している。映画館は幼いローマーにとって不幸な家族生活や重苦しい現実からの逃避の場となったが、当時の彼はスクリーン上で描かれていることを理解できず、自分の観ていたものは映画というよりはおとぎ話や神話であったと語っている。

 1939年5月。11歳のローマーはいわゆる“子ども輸送”の一貫で、300人の子どもたち(そのなかには彼の姉も含まれていた)とともに列車で英国へ送り出されることになる。このとき彼はユダヤ人としての自らが陥った成り行きを充分に理解しないまま甘受していたが、列車がドイツ国境を越えてオランダに入り、駅でケーキとレモネードをふるまわれた際に初めて身の安全を感じ、感謝の念を覚えたという。その後ローマーは、英ケント州にある私立寄宿学校バンス・コート・スクール──同1933年にドイツ系ユダヤ人女性教育家アンナ・エッシンガー(1879年〜1960年)が設立──に入学。同校には、数百人の少年少女(その大半は両親抜きで避難してきた子どもたち)が寝起きしながら学んでいた。学校でローマーは、教師たちには引っ込み思案な子どもだとみなされ、学友たちには変わり者だとみなされた。学業には身が入らず、成績は悪かった。

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