【合衆国映画の復興期】
はじめに

第一回 


第二回 

第三回 

第四回 

第五回 

第六回 

第七回 

第八回 

第九回 

第十回 

前ページへ << 

Copyright(C)2011 mozi by Sumio Toyama All Rights Reserved.

>> 次ページへ

mozi - 合衆国映画の復興期- 遠山純生-

 やがて第二次世界大戦が始まる。ロンドン大空襲のさなか、ローマーは何度か空襲を体験したが、恐怖は感じなかったという。寄宿学校も、シュロップシア(イングランド西部のウェールズに隣接する州)に疎開する。子どもたちは毎朝、校長であるエッシンガー女史の部屋に集い、ラジオで戦局の報道を聴いた。戦争のおかげで、ローマーと彼の妹は約一年半にわたって母親からの便りを受け取っていなかった。けれども1941年暮れになって一枚の絵葉書が彼のもとに届き、母親が合衆国へと逃げ延びたことがわかる。

 ローマーは現実の学校生活よりも、書物のなかや舞台の上で展開する冒険の数々に魅了されていた。彼は上級生が上演した舞台劇に鼓舞されて自ら人形劇の脚本を執筆し、人形も数体手作りしたが、満足のいく結果は得られなかった。

 1942年、ローマーが14歳のときに、学校がボイラー係としてある男を雇った。この男は戦前、ドイツやスペインの劇場で演出家として活躍していた人物だった。演技経験皆無の子どもたちはこの男の演出の下、長時間の稽古を経てバーナード・ショウ『聖ジョーン』やシェイクスピア『十二夜』を上演した。ローマーは、この心優しい元演出家とその妻(夫妻には子どもがいなかった)にことのほか可愛がられた。彼はこのときの経験のおかげで、後年映画第一作を監督する際、職業俳優と非職業俳優とをうまく協働させることができたと語っている。


●合衆国へ

 1944年末、ローマーと妹は合衆国の学校への編入を告げられる。兄妹は10日間かけて船で北大西洋をわたり、ニューヨークで母親と六年ぶりに再会した。しかしその後数ヶ月間、ローマーは周囲の人々に心を閉ざし続けたという。やがて彼は、同じく合衆国マサチューセッツ州ボストンに(おそらく母と一緒に)住んでいたおばの熱心な勧めでハーヴァード大学──本当は演劇学校へ行きたかったのだが、ハーヴァードが「近場にあった」から選んだのだとのこと──に進学することを決意する。入学後に英国での教育にむらがあったことがわかり、ローマーはしばらくの間その埋め合わせに時間を費やした。彼はハーヴァードでも演劇を学ぼうとしたが相応しい講座はなく、排他的な学生演劇同好会には入会する気になれなかった。この時期にローマーがのめり込んだのが映画鑑賞で、当時ボストンにあったさまざまな映画館で入れ替わり立ち代り上映されていたヨーロッパやアメリカの映画を公開日にすべて観た──たとえば、『黄金狂時代』(25)は五日間の上映期間中に毎日通って計五回鑑賞、『天井桟敷の人々』(45)は上映期間中毎日二回観た──ということである。

Top Page
column
studies
rare films
archives
profile
about this site