ところで、『通りで』と『無口な子』は、その共通点と同じ程度に互いの相違点もはっきり見て取れる二作品だ。つまり、映画作りの持つ出来事を記録する側面をひとつの軸として、前者はドキュメンタリー映画寄り、後者は劇映画寄りの作品なのだ。この二本の作品としてのありようを、以下に具体的に見ていこう。


●『通りで

 『通りで』は、スパニッシュ・ハーレムの路上生活および風景、とりわけ戯れたり喧嘩したりする様々な人種からなる子どもたちの様子を、16ミリ・キャメラで前述したように隠し撮りを含めて撮影し編集した、16分の無声映画だ。それは、ニューヨークの路上風景やそこに生きる人々を被写体とした、「ストリート・フォトグラフィ」として知られるレヴィットの写真作品の姿勢──とりわけスパニッシュ・ハーレムで生きる老若男女──を動く画に適用してみせたものだと、ひとまずは言える。むしろレヴィットは、「映画撮影者が小宇宙的な小さく繊細な世界を描くためにキャメラを利用する」ようにしてライカの35ミリ写真機を使う、などとも評されるのだが。

 『通りで』の冒頭には、以下のような断り書きが示される。
「大都市の貧民街にある通りは、何よりもまず劇場であり戦場だ。そこでは知らず知らずのうちに、そして誰にも気づかれることなく、あらゆる人間は詩人、仮面劇役者、戦士、ダンサーである。そして、通りの喧騒に対して彼が提示する無垢な芸術的才能において、人間存在のひとつのイメージである。この短編映画では、そうしたイメージをとらえようと試みている」。

 この言葉は何よりもまず、撮影者の存在を意識させずに被写体の自然な振る舞いを記録しようとする作者(たち)の意思を感じさせるだろう。実際、続いて次々と映し出される、路上を行き交ったり、そこで立ち止まったり座り込んだり、互いに言葉を交し合ったりする老若男女の様子──労働者階級である子どもたちの両親や祖父母たちの日常生活や、住人のペットと思しき猫や犬の振る舞いも切り取られている──は、先の言葉を実践したものに見える。わけてもハロウィーンの仮装をして大人たちに菓子をねだる子どもたちの姿が、季節感を醸し出して印象的だ。しかし映画の終盤には、撮影者に次々と駆け寄ってキャメラを覗き込む子どもたちの笑顔と、立ち止まってキャメラの方をじっと見つめるひとりの少年の思いつめたような表情が、集合写真や肖像写真のように示される。

 ここには1960年代以後の新傾向の合衆国映画の登場を予期する要素をいくつか見つけることができる。まず、都市の路上における街頭撮影から醸しだされる写実主義的感覚。次いで、主題としての貧困層やマイノリティ。最後に、人々の自然な振る舞いを記録しようとする作り手の姿勢である。


(以下次回に続く)

Copyright(C)2011 mozi by Sumio Toyama All Rights Reserved.

mozi - アメリカ映画の復興期- 遠山純生-

【合衆国映画の復興期】
TOPページへ

Top Page
column
studies
rare films
archives
profile
about this site

>> STUDIES TOPへ

前ページへ <<