第五回

ベアード・ブライアントと『クール・ワールド』@


●新しくて古い『イージー・ライダー』


 “ハリウッド・ルネッサンス”と呼ぼうが“アメリカン・ニューシネマ”と呼ぼうが新たな名称を与えようが構わないのだが、あくまでハリウッドを基準に映画史を見渡せば「新しく」も見えた1970年前後製作の一群の(カッコ付きのハリウッド)映画がある。実は(日本でいう)“アメリカン・ニューシネマ”は、時にハリウッド外の独立系映画をも含む「合衆国」映画総体を指して使われるかなり許容範囲の広い(定義の明確でない)言葉であって、この二つの名称は似て非なるものではあるのだが、ともかく1960年代後半に入ると、それ以前から少しずつ曖昧化していたアンダーグラウンド映画とハリウッド製商業映画の境界がますますぼやけ始める。それがもっとも見易い形で現れている例が、『イージー・ライダー』(デニス・ホッパー、69)だ。
 
 そもそも、『イージー・ライダー』がおこなうカウンター・カルチャーとそのスキャンダラスな儀式(麻薬、裸、共棲に加え、同性愛もしくそれに近似した男同士の同質的関係)の提示は、五〇年代後半のビートニクの生活を提示した作品を淵源とし、アンダーグラウンド映画全般がおこなっていたことだからだ。
その一方で、『イージー・ライダー』はロジャー・コーマンが作り上げたと言って良い“バイカー映画”の慣習にある程度則っている。とりわけ二本のコーマン監督作──バイカー映画『ワイルド・エンジェル』(66)とLSD映画『白昼の幻想』(67)──に多くを負っていることはしばしば指摘される通りだ。しかし同時に、カウンター・カルチャーを支持する身振りを示しつつ、『イージー・ライダー』は商業的規範から逸脱している。ロック音楽を使ったサウンドトラック、フラッシュ・カッティング、サイケデリックな主観的幻視、場面構築の全般的なゆるみ等、とりわけハリウッドの慣習的な映画文法に対する顕著な違反(こうした違反が、すべてそれ以前のアンダーグラウンド=オルタナティヴ映画に由来するものであったとしても)が認められるのだ。
 
 もっとも、『イージー・ライダー』はそれ以前のどのハリウッド映画よりもカウンター・カルチャーに対して共感的に見えるが、こうした「共感」も最終的には支配的なひとつのイデオロギー(映画製作上の特定の方法や形式的慣習を含む)に組み込まれてしまう。商業映画『イージー・ライダー』は目新しさを求めて旧来の方法や慣習を修正しつつも、そうした因習を根本的に侵害することはない。

 つまり、この映画が描く抑圧的な社会秩序からのユートピア志向的逸脱は、西部劇とその都会的=現代的等価物であるギャング映画にもすでに認められたものだった。こうした映画ジャンルの祖先たる悪漢物語と同じく、『イージー・ライダー』は最後に秩序からの逸脱の代償として、主人公たちが被るある種の「報い」──南部の貧困層らしき男に射殺されるヒッピー──を描くことで、反社会的行為への賛美を道徳的説諭に転換し、観客に安堵を与えるようにも見える。そこでは一見、麻薬、フリー・ラヴ、俗世からの逃走が讃えられているが、こうした要素(あるいは社会的・文化的変化)が犯罪化を免れることを許さない範囲においてである。

 もちろん『イージー・ライダー』が後のハリウッド映画に及ぼした影響を軽視する気はないが、とりあえず確認しておきたかったのは、この作品があくまでハリウッドの文脈においてのみ破天荒に映ったという事実であり、ハリウッドとカウンター・カルチャー双方に媚びた(という言い方が悪ければ、配慮した)ことで成功したという事実である。

mozi - 合衆国映画の復興期- 遠山純生-

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