【合衆国映画の復興期】
はじめに
第一回
 ヘレン・レヴィット、ジャニス・ローブ、
      ジェイムズ・エイジー @


第二回
 ヘレン・レヴィット、ジャニス・ローブ、
      ジェイムズ・エイジー A


第三回
 ひな菊を摘んで @

第四回
 ひな菊を摘んで A

第五回 
 ベアード・ブライアントと
          『クール・ワールド』 @


第六回 
 ベアード・ブライアントと
          『クール・ワールド』 A


第七回 
 ウィリアム・フリードキンと “ドキュメン
タリー的” 犯罪映画の系譜 @

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mozi - 合衆国映画の復興期- 遠山純生-

第七回

ウィリアム・フリードキンと“ドキュメンタリー的”犯罪映画の系譜@

 
第二次大戦後の合衆国における一部の独立系映画製作から生じた作品群は、同時代の世界映画と密かに足並みを揃えるようにして、記録と劇とを互い違いに縒り合わせる多様な諸形式を半ば意識的に開拓してきたことを、前回までの諸論考で確認してきた。今回は、そうしたオルタナティヴ映画を先駆とする新たな映画作りが、どのような形でハリウッド映画に取り込まれたか、その一例を探ってみたい。

 そこで、上述のような経過を体現する例として挙げるべき映画人の名が少なからず存在するなか、ここではウィリアム・フリードキンの監督作品を採り上げてみよう。1970年前後にハリウッド映画の新世代を代表する一員となるフリードキンは、テレビ放映用ドキュメンタリーで映像作品演出の仕事に進出した。このフリードキンの初期ドキュメンタリー映画『ポール・クランプ事件』(62)、彼が広い注目を集めるきっかけとなった──しばしば“ドキュメンタリー的”と評される──ハリウッド映画『フレンチ・コネクション』(71)、さらには後者に続く同傾向の商業映画群を検証してみることで、「ドキュメンタリー的」なる形容の内実の一端を垣間見ることができればと考える。


●ウィリアム・フリードキンのテレビ時代

 フリードキンの実質的な監督第一作である『ポール・クランプ事件』は、1953年に四人の仲間と共にシカゴの家畜置き場(屠殺・積み出し前に家畜を一時留めておく場所)を襲撃し、警備員一人を殺害した廉で服役中の黒人男性ポール・クランプ(1930年〜2002年。撮影当時32歳)に取材した、約60分のテレビ放映用映画である。
 
 まずはフリードキンが『ポール・クランプ事件』を監督することになった経緯を確認しておこう。
 ハイスクール卒業後の1955年、大学進学を考えていなかったフリードキンは、シカゴ・トリビューン紙の募集広告を見て地元のテレビ局の採用試験を受け、採用された。ただし、通りを隔てて向かい合った二つのテレビ局のうち、彼は募集広告を出していない方の局WGNに行ってしまったのだが、それでもそのWGNの方に(郵便室勤務として)採用されたのだった。約一年後にフリードキンはフロアマネージャー(ディレクターの指示に従って出演者を監督・指導する役職)に昇格し、続く八年の間に無数のテレビ生番組(ドキュメンタリー、ニュース、パネル・ショウ、クイズ・ショウ、ヴァラエティ・ショウ)を演出した。

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