小説が映画に翻案されるに際して、少なくともその内半分は放棄されねばならない。さもなければ、映画は4時問の長さになり、劇的なインパクトはヘンリー・ジェイムズの戯曲並みになってしまうだろう。だが『コック・ファイター』に関しては、どのみち主としてピカレスクなエピソードから構成されており、私はそれらエピソードの内いくつかを、オリジナル・プロットを損なわないように削除し、他にいくつかのエピソードをはめ込み、そうしてなお標準的な90分の映画になるような脚本にできると確信していた。結局、キルケーとセイレーンの章が失われたが、そんなことに一体私以外の誰が気付くというのだろう?
 
 ロジャー・コーマンが依頼してきたタイミングは、あまり好都合なものだとは言えなかった。私は新作小説を執筆するために、一年問教職から離れる許可を取ったばかりで、4、5週間で脚本を執筆した上で、その年の残りの内に小説を完成させる時間はまだたっぷりあると思っていた。
 
 これは私にしては甘い推測だった。そしてもちろんことはそんなにうまくはいかなかった。私はまだ、脚本家の契約には1つだけではなく3つの脚本草稿が要求されているということを知らなかった。だから私は結局脚本執筆に週7日働いて(通常の契約では、日曜祝日は労働日とみなされる)3ヶ月かけ、最終稿完成後に恐らくあと10日かけて、更にいくつか変更を加える必要があった。そして後ほど、モンテ・ヘルマンが監督に指名された後で、彼は小説を読み、簡潔にするために私が脚本から削ってしまった小説中の一場面を付け加えてもよいかと聞いてきた。
 
 脚本草稿を3つ書くという契約は、明らかに、脚本家たちが大スタジオのために、週給で普通6週間立てつづけに働いていた30年代からの遺物である。脚本家は1稿目を書くのに4週間かけ、それからプロデューサーがそれを読む。協議が行われる。2稿目が書かれ、プロデューサーがそれを読む。草稿が書かれている間、プロデューサーがそれを読むのに、普通2週間確保されている。その後、プロデューサーと脚本家の間でもう一度協議が行われ、最終稿が書かれる。各草稿を完成させた後、脚本家は合意によって定められた金額の内3分の1を支払われる。
 
 システムには長所と短所がある。だがそのことに関して、私には不服はない。システムのお陰で、プロデューサーは、もし彼がそうしたければ、完成作品に対する大変なコントロール権を行使することができる。だが彼は、たとえ一つだけ最終稿を受け取ったとしても、どのみちそんなものを行使しはしないだろう。システムのおかげで、脚本家には色々な試みをしてみる余裕がある。それは彼にとってプラスに働く。私はこの余分な時間を有効に使うことができた。最終稿が承認されて給与がすべて支払われると、プロデューサーは脚本を所有し、それは"財産"となる。真面目な小説家にとっては、ぞっとさせるような言葉だ。プロデューサーは脚本家の了承を得ずに、脚本を再び改訂したり、売り払ったり、彼の好きなようにできる。彼にそれを製作する必要がないのは確かだ。ハリウッドには、執筆され給与が支払われたものの、決して製作されることのない脚本がごまんとあるのは明らかなのだ。この点で、ハリウッドというのは、母なる自然としての浪費家である。だから脚本家は、自分の脚本を映画化してもらいたければ、まず第一に、映画製作の経済学を考えねばならない。製作されない映画の脚本を執筆するつもりは、私にはない。

mozi - モンテ・ヘルマン研究- 遠山純生-
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『コックファイター』から
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