モンテ・ヘルマンとの対話 ③

―─他の西部劇では、通常地形的な参照がなされています。ところがあなたは、そうした参照を排除されているように見受けられます。同様に、『断絶』で登場人物たちは合衆国を横断しますが、あなたは土地の変化には大して注意を払っていません。未分化の空間のようなものがあるのです。これはベケットからの影響でしょうか?

MH とんでもない。あなたは『断絶』で、車のナンバープレートばかり見ていたわけだ! 西部劇でサンタ・フェが出てきたら、すぐにそれとわかるよ!! 本当にわからないの? ふーん……けれど暖昧さを意図したところは一つもないよ。ただ明白さを強調していないだけだ。私にとって、空間は没個性的なものじゃない。人生においてだけじゃなく、映画の中においてもね。ニューメキシコはオクラホマじゃないんだから、私は『断絶』において地理的コンテクストから外れた場面は決して使わなかったし、シークエンスを入れ替えることもしなかった。風景は異なっているし、その点から見ればすべてがとても明確だ。音響や台詞に関しても同じだよ。映画の中のある要素を明白にしたくなかったんだ。ある意味では私は風景画家だと言えるね。だが風景の美しさ自体を表現したり、それを強調したりしたくはなかった。

──あなたにとって、風景の違いがとても明確なものであることに疑いはありません。しかし観客もそのように感じるとは私には思えないのです。観客が抱く印象はまさしく無人地帯のそれではないでしょうか。

MH その通りだ。でも例えば、西部劇に出てくるサンタ・フェの未舗装遣路について話したとしても、無人地帯という言い方は当てはまるだろう。定義付けの問題じゃないんだ。それは登場人物たちが、彼らのいる環境に対して保っている関係の性質に起因する。私は環境というものをたいていいつもそんな風に見ているよ。これまで生きてきて、好きになれない土地もいくつかある。だがそうした例外は除くとしても、人はどこへ行こうが自分自身からは逃れられないんだと思う。私はロサンジェルスからサンフランシスコヘ、香港へ、そしてパリヘ行き、様々な土地のまったく異なる感情を持った、たくさんの人々と知り合う。私にとっては、彼らは誰であれ似たようなものだ。『断絶』においては登場人物たちがどこへ行こうと、彼らは常に車の中にいる。その車は登場人物たちの世界であり、彼らが身を置いている状況などどうだっていい。重要なのは彼らが旅をし、ある州から別の州へと移動することであって、だからすべてが明確で、窓ガラスの向こうに見える景色が多様である必要があるんだ。だが結局、すべては似たようなもので、最後の場面は最初の場面と同じようなものだ。人物たちは少しぱかり変化する。それがすべてだ。

──空間を刻印されるのと同様、あなたには時間を平坦にしたり、あっと驚くような出来事を回避したり、統一されたリズムを生み出したりする傾向をお持ちですね。

MH ある程度まではそうだね。さもなければ、モンタージュはどうでもいいってことになる。他のやり方で編集したら、映画はまったく違ったものになるのにだ。単に、時間の中の変化は感知し難いものであって、激しいものではないということに過ぎない。時間は私と密接な関係を持っている。間違いなく、私の最大の関心事は時間だ。だが、観客が私の映画を前にして感じることと、私が時間に対する自分の態度を決定することは、それぞれまったく別の次元に属する。時間は私にとって、そして観客にとってもとても私的なものだ。観客が時間をはっきり意識していて、時間を受け入れられないほどでないことを願っているよ。彼らが映画を受け入れ、最後まで居心地悪くならずに見てくれたらと思うと同時に、気詰まりを感じて欲しいとも思っている。きわどいバランスを作り上げるわけで、うまくできるかまったく自信がない。観客に頭から映画を軽視させないようにしつつ、彼らをまごつかせてやることこそが問題なんだ!

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【モンテ・ヘルマン研究】

モンテ・ヘルマンとの対話 ④

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