モンテ・ヘルマンとの対話 ④

以下に掲載するのは、カイエ・デュ・シネマ誌1978年7~8月号、1979年7~8月号、1982年4月号に掲載されたヘルマンへの取材を再構成したもの。


──親しみを感じるシネアストはいますか?

MH 自分がますます孤独になっていると感じる。だんだん映画を観に行こうとは思わなくなった。親しみを覚えることのできる映画を観ていない。恐らく最近観た中でそう感じた唯一の映画は、モーリス・ピアラの映画『開いた口』(74、未/『母の死』の上映題でも知られる)だ。ウディ・アレンの映画は好きだが、風変わりなものだ。彼が扱う主題は、ある意味で私のそれに近い。たとえば『マンハッタン』(79)は、より率直に死を扱っている。死は私にとって、とても重要な主題だ。だが私は、自分と同じような映画を作っている人がいるとは思わない。アラン・レネは私と同じような映画を作っているような気がした。いつも私と同じようなやり方をしているわけじゃないが、彼は私が選ぶような主題を選んでいた。『戦争は終った』(66)や『ジュ・テーム、ジュ・テーム』(68、未)を私も作りたかったもんだよ。

 友人の映画は観に行かない。好きになれないのが怖いんだ……『ディア・ハンター』(マイケル・チミノ、78)は観た。あの映画を観て、私は怒り狂ったよ。あれは愚劣でうぬぼれた映画だと思う。あの映画には知性のかけらもない。人々があれを真面目に受け止めているってことが、ますます私を怒り狂わせる! いくつかの場面はうまく作られているけれど、リズムがすごく悪い。主題が不快感を与えるものだから、我慢しながら観なくちゃならない……あれこそまさに、エクスプロイテイション映画だ。


──なぜイタリアで映画 [『チャイナ9、リバティ37』(78)のこと ] をお撮りになったのですか?

MH 「ラ・コンパニーア・エウロペーア・チネマトグラーフィカ(La compagnia europea cinematografica)」というイタリアの会社に出資してもらい、製作してもらったからだ。イタリアとスペインの共同製作になった。だから一部はスペインで、一部はイタリアで撮影しなければならなかった。実際、スペインの景観は申し分なくあの映画に向いていたよ。西部劇にまさしくぴったりの道があったんだ。


──アメリカで撮るよりもたくさんの問題があったのではないですか?

MH 主な問題は配役にあった。何人かのイタリア人俳優と何人かのスペイン人俳優を使わなければならなかったんだ。映画は英語で撮られていて、俳優たちにはなまりがあったから、他の人たちの声で吹き替えをしなければならなかった。個人的には、そういうことはやりたくなかったんだが。

mozi - モンテ・ヘルマン研究- 遠山純生-
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【モンテ・ヘルマン研究】

モンテ・ヘルマンとの対話 ④

モンテ・ヘルマンとの対話 ③

モンテ・ヘルマンとの対話 ②

モンテ・ヘルマンとの対話 ①


いくつかの原則 
モンテ・ヘルマン

『コックファイター』から
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